ようこそポンポン山の森へ。
ポンポン山とは・・・大阪と京都にまたがる標高679mのなだらかな低山。大阪からは北摂山系、京都からは西山と
して知られる。
都に近い里山として、信仰の場として、人との関わりは昔から続いてきた。まだ再生可能な程度に自然が残り、日本鹿や猪・小動物の影は濃く、植物の種類もままある。
この日記は・・・一年を通じポンポン山地域を放浪し、猪鹿鳥の目線で自然と戯れ愉しむ。その妙の一端を歳時記に綴る。着飾らない自然をご覧あれ。気になる写真と出会ったら感想もご自由に。
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珍しく本格的な雨。
気温は上がらず、平地ではときおり雪混じり。
ポンポン山は白い雲に覆われて雪。
厳冬の川歩き。
~今日の愉快~
若宮神社に初詣。華やかな飾りで松の内らしい。
拝殿に参り、しばし瞑想する。わずかに寒さが和らぐ。
すぐそこの山も頂は冠雪している。おみくじの縁結びも雨でしっとり。
このあたりは竹林が多い。様々な緑色が愉快。
雨の川歩きは気を使う。濡れたコケがひときわ目に付く。
コケの朔はいずれも雨を宿す。ここだけ赤茶色の世界。
大きな堰堤下のプール。深みから浅瀬への色の変化が面白い。
水車小屋の廃墟に残る石臼。雨空を丸い水面に映す。
岩でせき止められた谷。雨で水量は増えているが全体には少なめ。
アオキの実が赤くなってきた。近くの木はまだ緑色、色づく期間は長い。
今日は氷雨だが、あと半月もすると春の雨になる。雨も気分しだい。
ヤブランの黒い実。そろそろ残っている実のほうが少なくなってきた。
おやおや、もう杉の木が赤茶色になってきた。今年の花粉はどうなるのだろうか。
水無瀬渓谷の上流部。こんなところにオナモミの林がある。
コケのいきいきとした緑は雨ならでは。冬であろうと関係なし。
気温は上がらず、平地ではときおり雪混じり。
ポンポン山は白い雲に覆われて雪。
厳冬の川歩き。
~今日の愉快~
若宮神社に初詣。華やかな飾りで松の内らしい。
拝殿に参り、しばし瞑想する。わずかに寒さが和らぐ。
すぐそこの山も頂は冠雪している。おみくじの縁結びも雨でしっとり。
このあたりは竹林が多い。様々な緑色が愉快。
雨の川歩きは気を使う。濡れたコケがひときわ目に付く。
コケの朔はいずれも雨を宿す。ここだけ赤茶色の世界。
大きな堰堤下のプール。深みから浅瀬への色の変化が面白い。
水車小屋の廃墟に残る石臼。雨空を丸い水面に映す。
岩でせき止められた谷。雨で水量は増えているが全体には少なめ。
アオキの実が赤くなってきた。近くの木はまだ緑色、色づく期間は長い。
今日は氷雨だが、あと半月もすると春の雨になる。雨も気分しだい。
ヤブランの黒い実。そろそろ残っている実のほうが少なくなってきた。
おやおや、もう杉の木が赤茶色になってきた。今年の花粉はどうなるのだろうか。
水無瀬渓谷の上流部。こんなところにオナモミの林がある。
コケのいきいきとした緑は雨ならでは。冬であろうと関係なし。
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おごそか
おごそかってつまり、木々や花、空や地面、虫や動物、それらこの世のすべての存在のありさまと、ありさまを静かに見つめる、いいかえれば一つであることを認識する気持ちだということができるんじゃないだろか、と思うんです。
人生で、おみくじを引いたことは片手で数えることのできるほどしかないんですよ。どちらかというと、まぁ女性用なのかと思っていますけど、男性が引いて「あ〜」なんて言う姿もありますね。もっとも心のみならず体まで女という男、男という女なんていう場合が、数ある生の中にはちらほらと在るようです。
山梨方面に知り合いがおりまして、『風林火山』のころに信玄ゆかりの神社仏閣を案内してもらったのですが、臨済宗の寺の入口のに、ただ円が彫られただけの岩が置かれていました。きのう何故か循環ということについて考えていたときに思い出したんですけど。
信仰とは美しく、そしてどうしようもない危険をはらんだものであることは、実はもうみな知っていることなのではないでしょうか。そこから大事なものだけを取り出して、さらに超えて行く、おたがいに持ち合うようにしていく努力をおこたらぬようにしていかなければ、しようがないのかなと考えているんですよね。
いつも石臼に溜まる雨水の、まんまるな水面のようでありたいと思うんですよね。
人生で、おみくじを引いたことは片手で数えることのできるほどしかないんですよ。どちらかというと、まぁ女性用なのかと思っていますけど、男性が引いて「あ〜」なんて言う姿もありますね。もっとも心のみならず体まで女という男、男という女なんていう場合が、数ある生の中にはちらほらと在るようです。
山梨方面に知り合いがおりまして、『風林火山』のころに信玄ゆかりの神社仏閣を案内してもらったのですが、臨済宗の寺の入口のに、ただ円が彫られただけの岩が置かれていました。きのう何故か循環ということについて考えていたときに思い出したんですけど。
信仰とは美しく、そしてどうしようもない危険をはらんだものであることは、実はもうみな知っていることなのではないでしょうか。そこから大事なものだけを取り出して、さらに超えて行く、おたがいに持ち合うようにしていく努力をおこたらぬようにしていかなければ、しようがないのかなと考えているんですよね。
いつも石臼に溜まる雨水の、まんまるな水面のようでありたいと思うんですよね。